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Countries, Cultures
& Customs 〜国・文化・習慣など〜 |

Days in the United
States (Fifth Weekend : Seattle's International District August 27-28,
2005)
In this area, a bustling community called Nihonmachi, or
Japan town, came to life in the years before World War U. Hotels, restaurants,
stores and laundries dotted the landscape. This community vanished when
Japanese Americans were forced into concentration camps during the War. Upon
their return, Japanese Americans rebuilt the community that had been lost.
Today, this area serves as a place of memory and continuing enterprise.
(WING LUKE ASIAN MUSEUM Pathways to Pride )
International District の歴史〜PartT〜
シアトルの観光地といえば、Safeco Field, Pike Place Market, などに続いて
International District が挙げられます。観光ガイドを読んでみると、“エキゾチックな雰囲気の街”
というなんだかよく分からない解説でしか書かれていません。しかし、この “エキゾチックな雰囲気の街”
とやらを徹底的に調べたら、何か興味深いことがきっと分かるに違いないと思い、昔のこの地域の地図を片手に端から端まで歩いて、どう変わったのか、なぜ変わったのかを考えていくことにしました。
今回の特集では、この2日間で調べたことに付け加えて、最終日の前日に Nipponkan Theater
内に入れたときの様子や旧国語学校まで行ったことも International District 特集PartUで紹介します。
Chinatown / The International District という名前の謎
この街の看板を見て、“あれっ”と思いました。日本にいるときからこの街の歴史を知るために本を読んで調べていましたが、それによると International District
には大きな日本人街があったはずだし、中国だけではなく、韓国、ベトナム、タイなどのアジア系の店が多くあるのに、なぜ Chinatown
だけがデカデカと書かれるのか、という疑問が浮かんできました。これについては、少しずつ明らかにしていきます。
Chinatown / The International District 写真3枚
Wing Luke Asian
Museum
International District のことについて知りたかったので、どこかたくさん資料があるとこはないか調べていました。以前 “Japs
Must Not Come Back!”
という戦時中の広告のようなものを宇和島屋の近くで見ていたので、そこにもう一度行ってみることにしました。「この情報源はどこだ???」とよ〜く見てみると、どうやら
WING LUKE ASIAN MUSEUM
というのがこのあたりにあることが分かりました。↓地図(1枚目の写真)があったので、これを見て位置を確認して行きました。Jackson Street と
7th Avenue の角のあたりに位置している黄色い建物です。
Wing Luke Asian
Museum 写真2枚
Wing Luke
という中国系アメリカ人がかつてこの街に住んでいました。彼はワシントン州ではじめてのアジア系市議会議員になったそうです。アジア系移民の子孫として、移民の公民権を勝ち取るために特に力を入れていたようです。しかし、1965年に飛行機事故で亡くなりました。その後、彼の友人たちがこの
Wing Luke Asian Museum
を設立し、この地域のアジア人の歴史を紹介しています。主に、中国、韓国、日本の3つの国からの移民の歴史が中心に紹介されていますが、日本人の強制収容所の部屋が実際の大きさで再現されていたりして驚きました。
ところが、この WING LUKE ASIAN MUSEUM
は、私が持っていたシアトルの観光ガイドで全く触れられていませんでした。地図にもないし、紹介されてもいない。ほかの観光ガイドを見ても、全く紹介されていませんでした。知っていてあえて紹介しないのか、それとも全く人々が関心を持たないからか?現在シアトルにいる方、これから行く方、この博物館へはぜひ行ってみてください。
THE WING LUKE ASIAN MUSEUM@ 写真9枚
中国人移民排斥
日本人移民のことについてまとめる前に、まず先にアメリカ大陸にやってきた中国人移民について書いておかなければなりません。Seattle's
International District
によると、西海岸のあたりに中国人がやってきたのは1789年に遡ります。本格的に移民としてやってくるようになったのは、カリフォルニアで金が発見された1848年。1842年にアヘン戦争(The
Opium War)で Great Britain
に負けてしまい、アメリカ西部との貿易に目を向けるようになったそうです。1880年までには、アメリカ合衆国全体に30万人の中国人がやって来ていました。ほとんどが、sojourner(一時滞在者)として働き、ある程度稼いでから中国に戻っていたようでした。
シアトルで最初にビジネスを始めた中国人は、Chen Chong
という人物で、タバコの製造・販売をしていました。約1年後の1868年に Chin Chun Hock が the Wo Chong Company
という会社を現在の Yesler Way のあたりで始めました。労働力の需要増大と、シアトルでの中国人増加をうまく利用して、Chin Chun Hock は
“labor contractor” になりました。Chinese Intelligence Office
という会社を興し、中国人労働者を企業などに派遣しました。これがシアトルでの中国人増加につながりました。しかし、1880年ごろ合衆国全体が不況に陥り、シアトルにもその波が押し寄せてくると、
それが中国人に対する嫌悪につながりました。1882年にはついに
The Chinese Exclusion Act (中国人排斥法)が出され、中国人が追い出されることになります。
日本人移民流入 〜ニホンマチの形成〜
この The Chinese Exclusion Act
(中国人排斥法)によって合衆国西部でも労働力が不足し、それを補うかたちで日本人が雇われるようになりました。1890年には約360人の日本人がワシントン州にいて、そのほとんどがシアトルにいました。1900年までには、ワシントン州在住の日本人は5,617人に達しています。このように短期間に日本人が増加した
要因としては、1896年に横浜〜シアトル間を大型汽船でダイレクトに行けるようになったことが挙げられます。
この頃シアトルに住み始めた日本人で記録に残っているのが、Kyuhachi Nishii
(西井九八)という愛媛県出身の人でした。しかし、彼がシアトル沖にある Bainbridge Island
に行ったときにはすでに20人ほどの日本人が住んでいたそうです。1890年代後半になってくると、シアトルにもまばらに日本人が住み始めていて、The
North American Times という夕刊と、Asahi Shimbun
という朝刊が日系の新聞として発行されていました。また、「県人会」も作られていたようで、一番大きかったのは広島県人会、続いて岡山県人会、山口県人会があったそうです。
現在の the Union Station
周辺にあったホテルはほぼすべてが日本人によって運営されていたようです。シアトルやポートランドなどでは鉄道建設に多くの日本人が雇われていました。1917年に行われた調査によると、シアトルには当時約5,800人の日本人が住んでいたようです。そのため、Six
Avenue と Main Street (現在は Panama Hotel がある)ところに、日本人やその他のアジア人の子どもが英語を学ぶ South
School という学校も設立されました。下の地図はいつ頃のものかは分かりませんが、Yesler Way から
Charles Street までがニホンマチであったことがよく分かります(SENTO
AT MAIN AND SIXTH P86)。

日系人排斥 〜真珠湾攻撃から大東亜戦争へ〜
こうして日本人がこの地に多く住み始めると、
かつて中国人に向けられていた敵意がいつしか日系人に向けられていきます。1940年頃の日本とアメリカの関係は悪化しつつありました。アメリカは日本が独自に作ろうとしていた経済圏を認めず、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)による
“ABCD包囲網”
によって日本を経済的に封じ込めていく作戦をとっていました。戦争を避けるため、首都ワシントンで交渉が行われましたが、このときすでに日本側の秘密電報を受信・傍受していたため、日本との交渉をアメリカが有利になるように進めていました。“だれが”傍受していたのかについては、後で触れたいと思います。
1941年11月26日にハル国務長官が日本に突きつけたハル・ノートは、日本が中国から即時撤退することを要求していたため、それをアメリカに対する屈服ととらえた日本は真珠湾の米軍の施設を攻撃し、これが“Peal
Harbor”として知られるようになります。
全米日系人博物館
ナショナル・リソースセンター
の年表で、真珠湾攻撃の前後のアメリカの動きを見てみると興味深いことが分かります。数ページにまたがっている項目を並べてみると次のようになります。
| 1941年8月18日 |
ミシガン州選出のジョン・ディンゲル下院議員が、ルーズベルト大統領宛の手紙の中で、一万人のハワイの日系アメリカ人を人質として強制収容し、日本の「良い態度」を確保するよう提案する。 |
| 1941年11月12日 |
ロサンゼルスのリトル東京で、ビジネスマンやコミュニティ・リーダーら15人の日系アメリカ人が、FBIの急襲で逮捕される。日系商工会議所や中央日本人会などの団体の記録や会員名簿も押収された。逮捕された15人は当局に協力するとともに、中央日本人会のスポークスマンは声明を発表した。「わたしたちはアメリカの基本原則と、誇り高いアメリカン・デモクラシーを子供たちに教えてきた。わたしたちは、平和と調和のもとにここで暮らしたい。わたしたちは、アメリカに100%忠節である」 |
| 1941年10-11月 |
ルーズベルト大統領が、カーティス・ルマソンに、日系アメリカ人の忠誠度について調査するよう命令。マンソンは報告書の中で、日系アメリカ人は忠誠心があり、ほとんど脅威にならないと結論した。
アメリカ陸軍情報部は、第四陸軍のもとサンフランシスコのプレシディオに秘密語学学校を開設。4人の二世インストラクターと60人の生徒(うち58人は日系アメリカ人)が集められた。 |
| 1941年12月7日(米東部時間) |
真珠湾攻撃 |
| 1942年5月 |
アメリカ陸軍情報部語学学校の最初の卒業生たちが、アリューシャン列島と南太平洋に送られる。 |
真珠湾攻撃をアメリカ政府は実は事前に知っていたと言われます。確かに、こうして真珠湾攻撃直前にアメリカ政府が日系アメリカ人をどのように扱ったかを見ると、
アメリカ政府がまるで真珠湾攻撃に向けて着々と準備をして待ち構えていたかのようです。特に注目していただきたいのが赤字の部分です。
真珠湾攻撃の1ヶ月ほど前に秘密語学学校をアメリカ陸軍情報部が設立して日系アメリカ人を集めています。そして真珠湾攻撃から約半年後にはその卒業生たちが南太平洋に送られ
ます。とても偶然とは思えません。
「戦争が始まると、日本人は敵の言葉である英語の使用を禁止した一方で、アメリカは敵の言葉である日本語を学んだ」
↑よく聞くセリフなのですが、こうして考えてみると実は “白人アメリカ人”
たちは敵国語である日本語を学んだとは言えません。後からさらに述べますが、アメリカ合衆国で生まれ育った日系二世の多くは、“アメリカ人”として認められるために兵役にも志願しました。また、日本語と英語ができる彼らは、西海岸のほぼ全ての軍事施設にも配備されました。だから日本からの情報を傍受して理解できたのです。上の表でも分かるように、アメリカ陸軍情報部が大急ぎで開設した秘密語学学校の生徒は、60人中58名が日系アメリカ人でした。最終的に卒業生の数は、約6千人に達しました。
1945年4月の沖縄戦でも、防衛プランや軍隊の位置を示した地図などの日本語文書を訳したのもアメリカ陸軍情報部の日系二世兵士。1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号で、日本が降伏文書に署名する際の通訳を務めたのも日系二世兵士。戦後
、東京で行われた連合国による一方的な裁判であった「東京裁判(The
International Military Tribunal for the Far East)」の通訳も結局は日系アメリカ人がしています。
つまり、アメリカ人といっても、“白人アメリカ人”が一生懸命日本語を勉強したのではなく、“日系二世”が勉強していたのです。
この時期に合衆国で用いられていた外国語の教授法で有名なのが、“The Army Specialized Training
Program (ASTP)” です。これについては、また別の機会にまとめたいと思いますが、現代英語教授法総覧(田崎清忠編集)
によると、「受講者に言語適性がないと判明した場合は命令により即座に除外した」「退学したものは、ほかの兵士と一緒に前線に駆り出されて、戦闘に従事させられた」
(p56)という
ことが、このASTPが成功した原因として挙げられています。日系二世がすべて日本語に堪能とは限りませんが、一世である親と家庭では日本語で話し、家庭を出れば英語というのがほとんどだと思います。そうした環境で育ち、さらにアメリカ人として認められたいという非常に強い動機がありました。そういう受講生を集中してトレーニングをするわけですから、この ASTP
が失敗する方がおかしいといえます。しかも“言語適性”がない受講生は排除されるわけですから。こうした“海外の外国語教授法”に、私は憧れる気になどなれません。
DENSHO
はアメリカ合衆国の日系人の歴史に関するサイトで、非常に参考になります。その中の
Reading: Question of Loyalty
というページには、その語学学校の様子が次のように書かれています。日系人日本語教師に日本語を教わる日系二世たちの授業風景の写真も掲載されています。
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The Military Intelligence Service (MIS)
In the Pacific War, Japanese
Americans assisted in the war effort through their language skills. The
Military Intelligence Service (MIS) was a branch of the U.S. Army that
played a critical role in the Allied victory over Japan. Established on
November 1, 1941, the Military Intelligence Service Language School (MISLS)
trained its students in the Japanese language through an intensive program.
Training ran from 8:00 a.m. to 4:30 p.m. and continued into the evening from
7:00 p.m. to 9:00 p.m. Eighty-five percent of MISLS graduates were nisei.
Six thousand nisei of the MIS were sent to Asia and served the U.S. military
in many capacities. They translated captured Japanese documents (such as
maps, battle plans, and orders), interrogated prisoners of war, and even
persuaded a Japanese unit to surrender by impersonating its Japanese
commanding officer. After the war, many nisei continued to serve as military
interpreters and translators during the U.S. military occupation of Japan. |
ここから次のことが分かります。
・The Military Intelligence Service Language School
(軍語学学校)は1941年11月1日(真珠湾攻撃の1ヶ月前)に設立された。
・訓練は、朝8時〜夕方4時30分まで。さらに夜の7時〜9時も続いた。
・卒業生の85%は日系二世。
・MISLSを卒業した6千人の日系二世たちは、アジアをはじめとした多くのアメリカ合衆国の軍事施設に送られた。
・地図や軍事計画などの日本語の文書の翻訳したり、日本人捕虜の尋問をしたりした。また、日本人の指揮官になりすまして日本人部隊に降伏するよう説得するなどした。
・戦後、米軍が日本を占領している間も通訳、翻訳の仕事を日系二世がしていた。
英語を学んでいた日本
それでは、日本は戦時中に、本当に敵国語を学ぶことをやめてしまったのでしょうか。このことについて調べていたら、和歌山大学教育学部の江利川春雄教授の
日本陸軍の英語教育史
というページを見つけました。ここには、戦時中の英語教育について詳細に述べられていて、終戦間際まで英語の授業が実施されていたことが記されています。その中に、熊本幼年学校46期生の佐々木襄の言葉が引用されています。
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語学は当時でも1週5時間で、3人の教官に教わったといったら、信じない人もいるのではないかと思う。当時英語は敵性外国語として禁じられたと言われているが、我々陸軍幼年学校ではそのようなことはなかった。むしろ外人教師(同盟国のドイツ人ではあるが)夫妻が、ドイツ語と英語の会話を担当していたくらい語学には力が入れられていたのである。 |
また、江利川教授は最後にこう述べています。
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敗戦を挟む日本の英語教育を断絶させることなく引き継いだのは、米英と交戦中だった陸軍の学校だった。陸軍幼年学校では少なくとも1945(昭和20)年8月3日まで英語の授業が実施された記録がある。しかも少人数で、良質な教官と教材に恵まれていた。 |
Washington DC放浪記2日目
で栗林忠道について書きましたが、彼もアメリカに留学していた経験がありました。「日本人は英語を学ばず、アメリカ人は日本語を学んだ」というのは歴史を知らない人が思い込みで言い始めたのではないかとすら私は思ってしまいます。
日系人強制収容 〜ニホンマチから Chinatown へ〜
さて、こうして日本と戦争状態になったため、ルーズベルト大統領は、1942年2月19日に Executive Order
9066(大統領令9066号)に署名し、逮捕状も何もなしに国内にいる日系アメリカ人約11万7千人を強制的に収容所に送りました。
ワシントン州からは計12,892人の日系人が収容されました。Seattle と Puyallup Valley の日系人は Puyallup assembly
center にまず送られ、それからアイダホにある Minidoka 強制収容所に送られました。下の写真(3,4枚目)は、
MINIDOKA 収容所を再現した建物です。
THE WING LUKE ASIAN MUSEUMA 写真11枚
こうしたルーズベルト大統領に対するやり方に、アメリカ合衆国国内からも反発がありました。多くの憲法学者も怒りの声をあげていたそうです。DIVIDED
DESTINY には、当時の Tacoma 市長であった Harry Cain もこの日本人排斥に反対していたことが記されています。
↓下の1枚目の写真は、1942年3月23日(月)の
Seattle Post Intelligencer
の見出しです。“JAPS MUST QUIT BAINBRIDGE” と書かれています。この場合の quit は、leave
と同じ意味で「立ち退く、立ち去る」という意味です。Bainbridge
というのは、シアトル沖にある島です。立ち退き勧告が出されてから与えられた時間はわずか1週間。翌週の3月30日(月)の正午までに日本人は Bainbridge
から完全撤去するように命令されています。
↓2枚目の写真には、“Evacuation Sale”
という文字が見られます。収容所に送られた日本人は鞄ひとつほどしか荷物を持っていけなかったため、仕方がなく持ち物を売り払おうとしたのでした。
↓3〜5枚目の写真は、日系人が集団で強制収容所に連行されている様子です。
↓6枚目の写真はシアトルのニホンマチから完全に日本人がいなくなって寂れた街の様子が写っています。7枚目は、ある学校の教室の風景ですが、空席がいくつもあります。この空席に日本人の生徒がいたのですが、彼らも収容所に送られたのです。このときに教室に残っていた白人の生徒たちは、先生からいったいどんな話を聞いたのでしょうか。
THE WING LUKE ASIAN MUSEUMB 写真15枚
こうしてシアトルにあったニホンマチは消えていき、その後、日本人が所有していた土地や建物を中国人が買い取りました。戦後、収容所から日本人がシアトルに戻ってきたものの、かつて自分たちが住んでいた街にニホンマチの面影はありませんでした。
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Most of the Japanese who
returned to Seattle had lost their jobs, homes, investments, savings and
business. They faced the prospect of beginning anew when they came back,
without financial resources, in a city full of people who considered them an
enemy race. (Seattle's
International District p70) |
国の政策によって収容所に入れられ、戦後シアトルに帰って来たら“敵”と日本人は見なされました。一からのスタートに絶望した人も多かったのではないでしょうか。“エキゾチックな雰囲気の街”
が出来上がった影にはこのような暗い過去があることを、ここに来る日本人の人たちにはぜひとも知っておいてほしいと思います。
これを機に、International District は、Chinatown / International District
というスラッシュ付きの表記になったのです。しかし、この表記には賛否両論がまだあるようです。
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The battle over the District's name and identity has
continued for years and shows no sign of stopping. (中略) Some in the Chinese
community, including the Chinese / Chinatown Chamber of Commerce and Chong
Wa, have insisted that the name "Chinatown" be used or at least included, as
in Chinatown / International District."
On the other hand, there are
those who say Chinatown or the Chinese sector, like Japantown, is part of
the area but not the entire area. This group of pan-pacific, younger,
progressive, Americanized District activists and workers assert that using
"Chinatown" or even describe "Chinatown / International District" does not
describe the area in its complexity. The term fails to recognize the
existence of other sectors - such as the Japanese, Vietnamese and Filipinos,
and for that matter the whites, American Indians and African Americans who
have always been in the area. (Seattle's
International District pp108-109) |
恥ずかしながら、戦時中に北米にいた日本人が収容所に入れられていたことを私が知ったのは、カナダに留学していたときで、しかもカナダ人の友人から聞きました。その後もそのことが頭の片隅にありながらも、具体的にどのようなことがあったのか本当に最近になるまで全く知りませんでした。
英語の教科書で過去に日系人が登場人物として出てきたことはありましたが、人種差別の題材として出てくるのは「アンネ・フランク」ばかりです。ユダヤ人が強制収容所に入れられる話を教科書に出すなら、北米の日本人が戦時中に強制収容所に連行されたことを教科書の題材にしてもいいのではないかと思います。現在使われている教科書を分かる範囲でインターネットで調べてみますと、当然この件を題材にしているところはありません。
よく調べると、New York
のエリス島も戦時中には、敵性外国人(ほとんどが日本人)を収容するために使われていたことも分かりました。

終戦後、合衆国内にあるほぼ全ての収容所が閉鎖されましたが、長いものでは1947年まで閉鎖されなかったものもありました。1988年、当時のレーガン大統領が下院法案442号に署名して、この日系人強制収容に関して政府が公式に謝罪しました。そして、生存する被収容者に補償金が支払われました。そして、同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強制収容所体験を全米の学校で教えるため、12億5,000万ドルの教育基金が設立されています。
ならば、日本の英語の教科書にも当たり前のように、この戦時下の日系人強制収容という事実を教材として載せてもよいのではないでしょうか。なぜそういう教科書が出てこない???
やはり、“ハンバーガーの注文の仕方” や “電話でよく使われる表現”
の方がより重要なのか... 「アンネ・フランク」ならドイツが悪役になっとるけど、「日系人強制収容」となるとアメリカ人が悪者になっちゃうからマズイのか...
日系アメリカ人部隊 〜442連隊戦闘部隊〜
“日本人”として収容所に連行された日系人たちのなかでも、アメリカ合衆国で生まれ育った二世たちは“アメリカ人”としてのアイデンティティが強かったようです。アメリカ陸軍省は、西海岸の日系アメリカ人の徴兵を中止するように命令していました
が、“アメリカ人”であることを認めてもらいたい日系二世たちは、“祖国アメリカ”のために兵士になることを志願しました。その数は、Minidoka
収容所で300人、全米では3万人以上にも上りました。一世の親からは反対されることも多かったようです。亜米利加合衆国滞在記の最初のページで引用している板坂元氏の言葉にあるように、“アメリカ人でないための苦しみ” と “アメリカ人であろうとするための苦しみ” を、彼らはまさに味わっていたのでしょう。
日系人だけで編成された「442連隊戦闘部隊」はイタリア、フランスを中心にヨーロッパ戦線で活動しました。
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Often against the wishes of
anguished parents, a total of more than 33,000 Japanese
American men and women (in the Women's Army Corps) served in World
War U. The 100th Infantry Battalion, made up of volunteers and
draftees from Hawaii and the mainland, was absorbed by 442nd
Regimental Combat Team, and their motto was "Go for Broke!" a
Hawaiian pidgin phrase meaning "go all the way."
The 100/442nd fought in Italy, France, and central Europe in seven
major campaigns from 1943 to 1945. In battle after battle, Nisei
soldiers showed bravery and fortitude under fire, sometimes
sacrificing their own lives to protect others. "These are some of
the best goddamn fighters in the U.S. Army," marveled Lieutenant
General Mark W. Clark, commanding officer of the 5th Army. (
DIVIDED
DESTINY pp68-69) |
次の日系人向けの新聞(1945年5月5日)は、そのときのイタリア戦線の様子を伝えています。日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦
に詳しいことが書かれています。
The MINIDOKA Irrigator
と日系人兵士 写真4枚
日本人であるが故に強制収容所に送られたにもかかわらず、日本語の能力を必要とされて軍に雇われ、情報戦で大いに力を発揮してアメリカ合衆国を有利に導いていく。“祖国アメリカ”に貢献することによって、日系二世たちは“アメリカ人”としてのアイデンティティを確立していく。こうした日系人たちの心情を合衆国政府は戦争に利用したと言えます。そう考えると、あの戦争は日本人対日本人という側面もあったのかもしれません。
International District
のことを知れば知るほど、この街が無言で私に話しかけてくるようでした。
へ続く...
...φ('-'*)
参考文献 DIVIDED
DESTINY Seattle's
International District SENTO
AT MAIN AND SIXTH
関連ウェブサイト
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